2014年7月24日木曜日

世界の十分杯


第1項.中国の欹器


 中国の欹器にはサイフォンの原理は活用されていない。しかし、戒めの杯としては、もっとも古いものといえる。ここでは、面白さよりは教訓を重視し、まず中国の欹器から紹介していきたい。
 欹器は日本語ではイキ、中国語ではyi1qi4(イーチ)、韓国語では의기(ウイギ)と発音する。そして、宥坐之器(ユウザノキ)という別の名称もある。この欹器が有名になったのは孔子(紀元前551-紀元前479)にまつわるからであるが、その逸話を紹介したい。

 孔子は弟子たちと一緒に魯国にあった齊国の桓公の廟を参拝しに行った時に、儀式の際に使う儀器を目にした。ところが、形が変わっており、その所以について廟守りに聞いた。

孔子:“あれは何の器ですか。”

廟守り:“桓公(?-BC643、中国の春秋戦国時代の齊国の王だった人物。 当時の中国には約3,000の大小の国があったが、その中でも大きな国は五つほどだったようである。 それらの国を春秋五覇と言ったが、齊国はそのうちの一国だった。そして、桓公はその齊国の君主だった。) がいつも近くに置き、座右の銘にしていらっしゃった器(宥坐之器;宥という字は一般的に許すという意味がありますが、 右の意味もあります。それで、いつも右において心の乱れが生じたときに見る物という解釈ができるかと思います。)です。 ”

孔子:“わかった。それの使い方がわかった。”

孔子は弟子たちを見回りながら、語った。

孔子:“水を器に注いでみなさい。”

一人の弟子が水を汲んできてゆっくりと注いだ。みんな息を飲んで見ていた。
空っぽの器は水が少し入ると、傾き始めた。そして、 器の真ん中まで水が入ったら安定して正しい形になり、 器がいっぱいに近づくや否やひっくり返ってしまい、中の水が全部消えてしまった。
皆、大変珍しくまた、面白くて何も言えず、孔子を見るばかりだった。孔子は手を打ちながら感嘆した。

孔子:“そうだね。世の中には満ちてひっくり返らないものはないものだね”

>子路:“先生、この器が空いていたときは傾いており、 真ん中ぐらいに水が入っていたときは正しく立ち、満ちた時はひっくり返ってしまいましたね。 ここに何の道理があるのでしょうか。”

孔子が弟子に答えた。

孔子:“そうとも。人もこの傾いた器と同じである。 聡明で博識な人は自信の愚かな面を見なければならないし、 功績が高い人は謙虚で遠慮しなければならない。また、勇敢な人は恐れなければならなく、 豊かな人は節約しなければならない。謙虚に退けば損をしないということもこれと同じ道理だ。”

原文は以下の通り

孔子観於魯桓公之廟、有欹器焉。

孔子問於守廟者曰、此謂何器。

守廟者曰、此蓋為宥坐之器。

孔子曰、吾聞宥坐之器者、虚則欹、中則正、満則覆。

孔子顧謂弟子曰、注水焉。

弟子挹水而注之、中而正、満而覆、虚而欹。孔子喟然而嘆曰、吁。

悪有満而不覆者哉。

子路曰、敢問持満有道乎。

孔子曰、聡明睿智、

守之以愚、功被天下、守之以譲、勇力撫世、守之以怯、富有四海、守之以謙。

此所謂損之又損而之之道也。

『荀子』の宥坐編

孔子とその弟子たち

 http://www.geocities.jp/sybrma/76ninomiyaouyawa.maki3.html

欹器

 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2c/a470a409abe18f2cceac1209620a781c.jpg

 要するに、欹器は、心の乱れが起きることを戒めるために近く(右)においておいた物である。 そのため、その教訓として「足るを知る」が強調されている。 人間を動かすのは利害であり、その根底には欲があると思う。 ところが、その欲が身の程を過ぎてしまったら、それまでの貯えが全部消えてしまう恐ろしい状況になってしまう。 腹八分目という言葉はまさに十分杯のメッセージと重なるところがある。かといって、 何もかも遠慮するということはないだろう。あくまで身の程を知り、自身を戒め、節制するということに尽きる。


第2項.ピタゴラス杯


 十分杯の由来は今から2500年前のギリシャの数学者で哲学者だったピタゴラス(紀元前582年 – 紀元前496年)にあると言われている。 そのため、この杯に彼の名前がついている。ちなみに、一個当たりの値段は約1,000円(9.90 €)である。

ピタゴラス杯

 http://www.flickr.com/photos/86682180@N00/5792619533/in/set-72157626789537972

ピタゴラス杯2

 http://fountaceramics.gr/en/Pythagoras%20cup/Gold%20archaic%20presentations.html

ピタゴラス杯3

 http://recedingrules.blogspot.com/2010/03/cup-of-tantalus.html


第3項.朝鮮半島の戒盈杯


 朝鮮半島にどのようなルートで伝わったかは不明だが、日本の十分杯と全く同じ仕組みの杯がある。 その名は盈ことを警戒するという意味を持つ戒盈杯(ゲーヨンベ)である。 記録上では、朝鮮の後期に作られたようである。白磁職人が大もうけをした後、 放蕩な生活をしたあげく、多くのものを失った。そこで、初心に戻り、 全身全霊で作り上げたものが戒盈杯だと言われている。 そして、朝鮮後期の巨商が自身を戒めるために常にそばに置いたと言われている。 韓国では、政治家からのプレゼント、新婚さんへのプレゼントとして普及し始めているようである。 しかし、まだまだ日本同様、知名度が低いのは同じである。

戒盈杯1
戒盈杯2

戒盈杯3

 http://blog.naver.com/sdgrinding?Redirect=Log&logNo=120074543906

戒盈杯4
戒盈杯5

 http://blog.naver.com/sdgrinding?Redirect=Log&logNo=120074543906


↓ この戒盈杯は飾り(突起)がない。
戒盈杯6

 http://blog.naver.com/bandri25?Redirect=Log&logNo=57751562


 ↓ この戒盈杯は飾りを壁側に持ってきた斬新なデザインである。


http://www.dailian.co.kr/news/news_view.htm?id=215892&sc=naver&kind=menu_code&keys=4

2014年7月23日水曜日

長岡と十分杯

 長岡藩を根底から支えていた精神は二つあった。

 一つが常在戦場(常に戦場にいる心構えを持って生き、ことに処す)の精神であり、もう一つが十分杯(戒め、節倹)の精神である。

 長岡藩と十分杯の出会いは三代藩主牧野忠辰(まきのただとき1665―1722)の時代にまで遡る。牧野忠辰が領民(塚越、おそらく庄屋)の持参した十分杯に感銘を受け、次の詩を詠んだことから始まる。以下は藩主作の序文と詩である。



十分盃の銘并びに序

或るひと十分盃を以て予に示す。

夫れ惟んみれば、十分盃の器為る、其の八分なれば則ち溢れず、盈つれば則ち皆漏る。

諸を人の見志に比するも亦然り。

位高ければ則ち必ず悔有り。

心敬せざれば則ち必ず過ち有り。

故に易に曰く「天道盈つるを虧く。亢龍悔有り」と。

其れ斯の謂ならんか。

銘に云く

位高易傲     位高ければ傲り易く

意肆来悔     意肆なれば悔来る。

物理爾皆     物理皆爾り

觀十分杯     十分杯を觀よ。

丁卯(四年、1687年)孟冬(初冬)

檪軒悦咲子(牧野忠辰)

(後略)

※この資料は木のマスの十分杯を製作し、また、郷土史にも詳しい長岡歯車資料館の内山弘館長の月14日十分杯を愉しむ会主催の講演内容に基づいている。



 序文や詩を読む限り、藩主は藩士や領民に戒めや節倹の精神を持ち、日々を送ってほしかったようである。

 これだけきちんとした歴史と素晴らしいメッセージがある文化遺産の十分杯だが、残念ながら長岡の市民の認知度は非常に低い。

 記念品としては、牧野忠辰を祭る蒼柴(あおし)神社の県社昇格記念品、阪之上小学校の100周年記念品、長岡高校の同窓会の記念品として配られたことがある。また、結婚式の引き出物として配られる場合もある。

十分杯の仕掛け

 十分杯にはサイフォン(ギリシャ語でチューブ、管)の原理というものが応用されている。 十分杯の底から水が漏れるのを理解するには、このサイフォンの原理というものを理解しなければならない。

 サイフォンの原理とは、サイフォン(チューブ、管)を使って、高いところの水を低いところへ移すしくみのことである。 このサイフォンの原理を理解するために、まず、コップ(入れ物)の中の水を外に移すにはどうしたらいいかを考えてみよう。

 サイフォンの原理が仕掛けられていない普通のコップの場合は傾けてやるしかない。 それ以外の方法として、くしゃみで救い上げる方法もあるが、全ての水を救い上げられるわけではない。 しかし、サイフォンの原理を活用すると、傾けずに殆どすべての水を出すことができるのである。 コップ(入れ物)の中に外と通じるパイプをつなげるのである。 十分杯の場合は、パイプを隠すために突起となっているのである。 つまり、突起の中を管が貫通しているのである。

 地球上に存在する全てのものは地球に引っ張られているため、 何の支えもなければ必ず地面や水面に落ちるようになっている。 当然、水も例外ではない。ここで、下に示した図を見てほしい。 左図のコップの水には重力は働くが、水を囲む高くて丈夫な壁の存在と、 パイプの中の水圧と大気圧の大きさが同じであるため、 水は普通のコップと同じように傾けない限り移動させることはできない。

 ところで、このコップに水を注ぎ足すと考えてみよう。どうなるだろうか。
 
 コップの中の水が増えるのと同時に突起の中の管内の重力が高まるようになる。 重力が高まるにつれて水圧も高まる。そして、突起内の管の最高点まで水が到達すると、 水圧>大気圧となり、重力が働き、水は漏れる。



十分杯の仕組み

(出所)http://blog.naver.com/kyc_kyj?Redirect=Log&logNo=100097786820


 このサイフォンの原理は日常生活の様々な場面で遭遇することができる。 トイレの便器、灯油ポンプ、洗面台の下のくねくねパイプ、ダムの放水、水槽、消化器等々である。

2014年7月22日火曜日

十分杯の写真



十分杯写真1
十分杯写真2
十分杯写真3
十分杯写真4
十分杯写真5
十分杯写真6
十分杯写真7
十分杯写真8
十分杯写真9
十分杯写真10
十分杯写真11

十分杯(じゅうぶんはい)とは


酒杯であるが、杯の中に突起がある点が普通の酒杯と異なる。飲み方は普通の酒杯と同じである。ただし、注ぐ際に一つの注意が必要である。一定の量(八分目)を超えてはならないのである。それを超えて注いでしまうと、中に入っていた全てのお酒が下に漏れてしまい、杯は空っぽになってしまう。
そこには面白い仕組みが仕込まれている。面白い仕組みとは、杯の八分目までお酒が入っているときは他の酒杯と同じであるが、それ以上にお酒を注ぐと、中に入っていた全てのお酒が下に漏れてしまう。この杯でお酒を楽しみたいならば、せいぜい八分目までを楽しむ心の余裕が必要である。
なぜ、八分杯ではなく、十分杯なのか、を考えてみた。実際、山形県では八分杯と呼んでいるらしい。どちらも仕掛けは同じであり、そのメッセージも同じである。八分杯という名は八分目までで抑えることを強調しており、十分杯という名は十分すなわち、過欲を強く警戒している。“十分”とは“過欲”なのである。
日本には資本主義という非常にきれいな花が立派に咲いたが、欲という棘もたくさんできてしまった。今の時代にこの欲を全部否定することはできないし、また、してはならないだろう。しかし、不要不急のものに対する欲は、単なる欲ではなく、過ぎた欲、つまり過欲になる。欲しい物を持ってはいけないということではない。必要な範囲内で持つようにしようということである。人は心に欲が出来てはじめて動き出す。そして、欲はどんどん大きくなっていく。そして、やがては欲が人を食ってしまう場合もある。欲に食われずに、純粋さと節度を保ち、過欲に走らずに蓄えを持った人として生きていくために十分杯を心に持ち歩くのはどうだろうか。
十分盃と十分杯どちらが正しい?
どちらも正しいが、盃は杯の俗字である。